安形俊久さんは、日本人で167人目のエベレスト登頂者です。
これは、そのエベレスト登頂という偉業達成までの体験記になります。

 

エベレスト登頂記 ~夢に向かって~
            医療法人 安形医院 外科医 安形俊久

 2010年4月18日、10年間の思いを胸に、関西国際空港を出発。カトマンズに飛び立った。

2001年
 2001年に卒業旅行でアフリカへ行き、ケニアで友人2人と分かれ、一人タンザニアへ移動。キリマンジャロ登山へ向かった。その後より、いつかは世界最高峰を目指したいという夢を抱いていた。それからというもの、登山が趣味ではない私は、外科医として仕事をする毎日を送っていた。

2009年
 2009年春頃、家庭の事情により来年には実家を継ぐ予定となった。その年の夏に医学博士研究が仕上がり、その頃から来年開業したら長期の休みはとれなくなると考えていた。エベレストに行くには実家に戻る前、今しかないと思い、9月にプロガイドのいる登山店を訪れ、勇気を出して「半年後の春にエベレストへ行きたい」と想いを伝えたが、全く相手にしてもらえなかった。それでも何度も訪れた。3度目に少しわかってもらえてまず日本の山に登るように言われた。そして10月に日本第二の北岳を含む白峰三山、11月末には富士山で冬山登山をし、2010年1月に角谷国際ガイドと初めて会い、八ヶ岳へ訓練に行った。その後、出発10日前に富士の高度馴化トレーニング施設で訓練した。

ベースキャンプまで
 以上のように、半年間での4回の訓練しかできず、非常に不安を抱きながら出発した。カトマンズへ到着後、数日間買出しやら道具の準備をした。4月22日に国内線でルクラという村まで行き、そこからは1週間かけてエベレストの麓にあるベースキャンプまで山道(キャラバン街道)を歩いた。登山メンバーは角谷国際ガイド、現地ガイド2名、キッチン担当2名の6名。ベースキャンプまではその他ポーター7名、ゾッキョ(牛)20頭。総量は約500㎏。ルクラは標高2,840m。そこから5,400mのベースキャンプまで山をいくつも越えてひたすら歩き続けた。キャラバン中はロッジに宿泊、ベッドの上に寝袋で寝た。

ベースキャンプにて
 4月29日にベースキャンプほ到着。その頃から高山病に罹り、頭痛薬(ロキソニン)と利尿剤(ダイアモックス)を内服。徐々に軽快した。高度順化させるべく、ベースキャンプにて3週間テントで過ごした。昼間のテント内は気温30度と暑く、半袖・短パンで充分だが、15時頃より急に冷え込み、雪が降り始め、ウールの長袖とダウンを着込む毎日であった。夜中は-10度となり、寝袋に潜る。食事は、キッチン担当(本業は登山ガイド)が日本の山小屋で何度か料理を作った経験があり、我々が飽きないように日替わりの日本食を作ってくれた。
 ベースキャンプからエベレスト登山の開始である。Camp1(C1)(標高5,900m)、C2(6500m)、C3(7,000m)、C4(7,900m)にそれぞれテントを張り1泊ずつする。3週間の高度順化中にC2まで行った。ベースキャンプからC1まではアイスフォールを登っていくのだが、クレパス(氷河の深い割れ目)の上をひたすら登っていく。命綱を掛けながら約40ヵ所ものはしご渡りをしなければならなかった。慣れるまではアイゼンがはしごに引っかかって何度もバランスを崩した。また、氷河の上では吹雪で視界が悪い状況の中、底無しのクレパスに落ちないようにジャンプで渡ったりしなければならなく、高所恐怖症の私には地獄であった。極度の精神的ストレスに陥り、C1では鬱にもなり、全てから逃げ出したくもなった。しかし翌朝までには何とか立ち直り、もう少しだけ頑張ってみようという気持ちになった。C2まで登って高度順化してから、一旦ベースキャンプまで戻った。丁度その日が5月6日で私の誕生日であり、待機していたキッチン担当版がお祝いのケーキを作ってくれ、とても癒された。
 ベースキャンプで友達と一緒ならまだ気持ちも違っていただろうが、一人でテントで長時間過ごすのはとても孤独を感じた。色々なことを考えてしまう。富士山での一泊しか経験しなかったテント生活を、一ヶ月以上も過ごさなければならないストレス。毎日のように聞こえてくる雪崩の地響き。日を増す毎に不安が募っていった。何度も何度も帰りたくなった。しかし、周りの大勢の人達が自分を応援してくれているし、後輩達にも「やる気になれば何だってできる」なんて偉そうなことを言ってしまった以上、もう引き返せない。世界最高峰は自分の“夢”であり、「これがラストチャンスだぞ」と何度も自分を叱咤激励した。

世界最高峰
 そしてその日を迎えた。5月19日AM3時半に起床し、5時にアタックへ向けていざベースキャンプを出発。恐怖のC1までのルートを登りきり、C2で一泊。そこから酸素マスクを使用した。約5㎏の重いボンベをC3へ到着。この高度だと平地の3倍の重さである。C3は岩壁であり、傾斜40度とかなり急勾配であるが、他に場所が無いためそこにテントを張った。テント内は命綱を外す。強風で吹雪いており、テントごと飛ばされたら1,000m下まで滑落してしまうが、そんな心配も束の間、疲労のため熟睡してしまった。C4は7,900mと標高も高く、酸素を外すと酸素飽和度(SqO2)は60台まで低下してしまうため、食事以外はマスクを外せなかった。食事といってもベースキャンプより上はガスバーナーで雪を溶かし、そのお湯で作ったラーメン等のインスタントばかりであった。

夢に向かって
 そして5月22日、吹雪が弱まった0時に頂上を目指してアタックを開始した。急勾配を登っていくのだが、酸素をしていても息が上がる。なかなか足が出せない。一歩登るのに10秒ほどかかってしまう。気づいたら夜が明けていた。朝焼けの最高の景色に見えるのだが、登るのに必死で見ている余裕など無い。マスクをしていても苦しいし、当然外しても苦しい。必死の思いで頂上付近まで到達し、最後の岩壁ヒラリーステップを越えたところで角谷ガイドに「あと30分で頂上だ。最後まで行くか!?」と改めて激励され、再度気を引き締めながら「はい!」と答えた。命綱があるといえど、一歩踏み外せば断崖絶壁から滑落する危険もある。恐怖にかられ、精神的にも限界を超えながら、午前11時25分8,848mの頂上に到着。その瞬間は「もうこれ以上、上がらなくていいんだ」という安堵の気持ちでいっぱいだった。頂上は氷点下20度、風速20mであり、体感温度は恐らく氷点下50度ほどであろう。自分の携帯電話やカメラも凍ってしまうくらいだ。頂上までもが斜面になっており、強風と寒さで立つこともできなかった。ガイドのカメラで、記念撮影を速やかに済ませ、5分ほどいただけで下山を開始した。C4に戻ったのは16時を過ぎており、この日は延べ16時間の行動であった。

エベレストを後にして
 その後C4で一泊し、翌日には一気にベースキャンプまで戻った。とっくに日は暮れ、到着したのは21時過ぎであった。脱水状態のため2リットルほどのドリンクをがぶ飲みした。ベースキャンプまで戻れば雪崩の心配は殆ど無く、漸く安心して休めた。
 翌日テントの片付けやゴミの回収を行い、一泊後ベースキャンプを出発した。帰りはルクラまで4日で到着。ルクラは霧が濃く、天候が回復してから半日遅れで予定の飛行機が到着し。カトマンズへ戻った。5週間振りに浴びるシャワーは最高の幸せを感じ、疲れを全て洗い流してくれた。滅多というが、この先もこんな経験は二度とないだめうからある意味楽しみにしていたが、残念なことに停電中で薄暗い中で浴びたため、体の汚れは確認できなかった。数日間倉庫で荷物の片付けをしながらカトマンズで過ごし、6月2日にネパールを離れ、3日に帰国した。


 エベレストを振り返って考えてみる。行ったことで自分がどう変わったかはわからない。しかし、周りの支えがなければ、恐らく登頂できなかっただろう。辛くて、本当に辛くて何度も諦めて帰りたくなった。鬱にもなった。でもそんな時は皆の顔が浮かんでくる。応援してくれている。元気な時は苦しくてもそれが力になるのだが、そうではない時はプレッシャーになる。逃げたしたくもなった。ここまでで許して欲しいと何度も思った。でも、必ずその後は「自分が一度決めたことだから諦めたくない。もう少しだけ頑張ってみよう」と思い、一歩ずつ進めばいつかは辿り着く。夢を叶えるためには、進まなければと思い始める。すると周りの応援がパワーになる。再び頑張る気持ちになれる。必死で頑張れた。皆のおかげだ。
 今まで以上に人々の「支え合い」を大切にし、これからの人生を送っていける。

 最後に、私を応援してくださった全ての人々に心から感謝の気持ちを持って、終わりとさせていただきます。ありがとうございました。